2017.10.22説教「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか。」

旧約聖書 哀   歌  3章25~33節
新約聖書 使徒言行録 22章 1~21節

パウロは、エルサレム神殿で、自分を殺害しようとしている人々に対して弁明をしました。弁明の中心は、パウロの回心にありました。回心の出来事において大切なことは、主イエスがパウロに、「サウル、サウル」と呼びかけて下さったことです。パウロが求めて、尋ね出したのではありません。主イエスが、先手を取り、恵みの待ち伏せをして、パウロに語りかけ、彼の生き方を根本から変えて下さったのです。回心したパウロは、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と問いました。ここには、神に服従しようとする意志が見えます。神は、このパウロに「立ち上がってダマスコへ行け」とか、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」と命じられました。

パウロは、なぜこのような内容の弁明を、この出来事から20年後のエルサレムの人々に対して行っているのでしょうか。パウロの弁明を一貫しているもの、それは、神の御計画がいかに、すべてに先行するかの一点です。パウロは、自らの意志に反してであっても、神の御旨に従い、これを実行して行く備えがあったのです。主イエスを信じ、神の家族の一員とされた私たちは、パウロのように「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか」と、主イエスに全く従い、主イエスの指示を待ち望んでいるでしょうか。自分の願望、期待、都合ばかりを主張して、主御自身の御旨に聞き入る姿勢、時間を少しも取っていない、これが実情ではないでしょうか。私たち各自が「どうぞお話しください。僕は聞いております」(サム上 3:10 )と祈る者とさせていただきましょう。

コメントを残す