2017.12.10説教「激変と放置の中で」

旧約聖書 詩   編 92編 2~16節
新約聖書 使徒言行録 23章23~35節

千人隊長は、パウロ殺害計画をパウロの甥をから聞くと、当時エルサレムに駐屯するローマ軍の約半分を用いて、パウロを護送させます。さらに総督フェリクスに対して適切な手紙を書き送ります。パウロがやがてローマで主を証しする使命を果すために、千人隊長が重大な役割を果している事実を、私たちは注目すべきです。神のご計画が実現し、使命を果して行く過程で、神の忠実な僕であるキリスト者たちが用いられていきます。しかし、そればかりではありません。神を信じていない人々も、本人の自覚を越えて、用いられている事実に私たちは注目する必要があります。

パウロはカイサリアに着きました。パウロは、このカイサリアで二年間も放置されることになりました。しかし、パウロは、その時とその場所を無駄にしませんでした。出会った人たちに福音を宣べ伝え、ローマでの証しに備えたのです。パウロが、神の使命を果して行く道を歩む時、「今夜」(23:23)と一夜の中に事態が激変する場面を一気に通過する時があります。しかし、また二年間も放置されたまま、ひたすら待ち続ける(24:27)ということもありました。私たちの人生にも「激変と放置」の経験があります。しかし、どちらにも神は共におられるのです。クリスマスに産まれて下さったお方は、インマヌエル「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)御方です。この御方は私たちが「激変と放置」の中にあっても共におられます。ですから、私たちは、その置かれた場所で与えられた使命を果し続けていきましょう。

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2017.12.03説教「神の守りと助け」

旧約聖書 詩   編 34編 2~ 8節
新約聖書 使徒言行録 23章12~22節

パウロは、ローマ軍の兵営の中で、軟禁状態にありました。そのパウロを殺害するため、生命を投げ出す四十人以上の人々がいました。更に彼らは、最高法院の「祭司長たちや長老たち」からの協力を得ていました。ところが、パウロの甥がこの情報を聞き、兵営の中に入って来て、パウロに知らせました。これは、困難な状況の中で、そこから脱出する道が開かれたことを意味します。一人の平凡な人間を通し、神は、パウロのために困難な状態から「逃れる道をも備えて」(Ⅰコリ10章13節)下さいました。パウロは、身に迫るこの厳しい殺害計画から逃れるために、ローマ軍の千人隊長が鍵を握っていると考えました。しかし、千人隊長がどれ程好意的であったとしても、その千人隊長のもとに甥を連れていくためには、最も相応しい人物を的確に選ばなければなりませんでした。それでパウロは、熟慮の上、一人の百人隊長を選び、「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです」と伝えました。11節に見る、主イエスの言葉に支えられて生かされるパウロは、じっと何もしないのではありません。私たちは誤解してはいけません。「神が守って下さる、助けて下さる」ということは、私は何もしなくてもよいということではありません。私は、神の守りと助けがあるゆえに全力で自分の人生を生きていくのです。機会を生かし、的確な判断を重ね、置かれた困難な状況の中で進みます。これが、主イエスの言葉に支えられて生きる者の生き方です。この待降節(アドヴェント)のとき、私たちも困難な中にあっても、神の守りと助けを信じて、私たちになすべきことを行っていきましょう。

2017.11.26説教「エルサレムで、ローマでも」

旧約聖書 ハガイ書  2章 1~ 9節
新約聖書 使徒言行録 23章11節

パウロは、最高法院で証言しました。そのため最高法院は分裂し、論争が起こりました。パウロに身の危険を感じた千人隊長は、最高法院の中から力ずくで助け出しました。その夜、主は遠くからパウロに声をかけるのではなく、そばに立たれました。同じように、疲れ切って祈る言葉を失っている、私のところに主の方から来てくださいます。「大丈夫だ、私が共にいる」と声をかけてくださいます。

今まで見て来たように、エルサレムにおけるパウロの伝道活動は、決して順調なものとは言えませんでした。しかし、主イエスは、「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように」と認めておられます。私たちが「失敗した」と評価するとき、主イエスは「よくやった」と言ってくださるのです。さらに、主はエルサレムだけでなく、「ローマでも証しをしなければならない」とパウロに委ねられている将来の使命をも示しておられます。神から委ねられている使命は、種種な困難を通してではありますが、必ず遂行されていきます。

主イエスは、私たちにも、私たちのエルサレムで、主イエスは証しをすることを期待しておられます。さらに、私たちのローマでも、主イエスの証しをすることを、望んでおられます。私たちにとってエルサレムとは、ローマとはどこでしょうか。教えていただけるように祈っていきましょう。しかし、たとえどこであったとしても、主イエスは、私たちの「そばに立って」「勇気を出しなさい」と声をかけてくださいます。その声に支えられて、私たちの「エルサレムで、ローマでも」大胆に歩んでいきましょう。

2017.11.19説教「真実な平和を求めて」

旧約聖書 エレミヤ書  8章 4~13節
新約聖書 使徒言行録 22章30節~23章10節

千人隊長は、問題解決のために祭司長たちと最高法院全体の召集を命じました。この最高法院の議長を務めたアナニアは、「その貪欲さで悪名高い大祭司」でした。パウロは、この大祭司に向かって、汚い内側を隠すために外側だけを「白く塗った壁」と非難しました。また、当時の最高法院は、大祭司に与する多数派のサドカイ派と少数派のファリサイ派から成り立っていました。そこで、突然「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と発言しました。そうしますと、ファリサイ派の中から「この人には何の悪い点も見いだせない」と言い出す者まで現れました。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、人々の中からパウロを力ずくで助け出しました。

このパウロの言動を理解する鍵は、11節にあります。ここで主イエスは、「(パウロが)エルサレムでわたしのことを力強く証しした」と高く評価されました。確かに、「ファリサイ派の数人の律法学者」が、「霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と認め始めました。その意味で、パウロの言葉は、確かに証しであり伝道説教でした。

パウロは平和を愛する人でした。平和のために、自分を犠牲にしました。しかし、信仰の本質的な問題となると話は別です。たとえ、大混乱を起こし平和が壊れても「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」という生き方をしていました。私たちもたとえ、一時的には混乱が起こっても、キリストの内にこそ真実な平和があることを信じて、良心に従って神の前で生きていきましょう。

2017.11.12説教「母の祈り、子の祈り」子ども祝福式礼拝

聖書 サムエル記上 3章1~10節

昔、イスラエルにハンナという名前の女の人がいました。ハンナには、とても悲しいことがありました。いつまでたっても赤ちゃんが生まれなかったのです。ハンナは、神殿でお祈りをしました。「神さま、赤ちゃんを下さい。もし男の子が生まれたら、その子を神さまにおささげします」と、涙をぽろぽろ流しながら何回もお願いしました。そのようすを見ていたエリ先生が、ハンナに言いました。「心配しなくても大丈夫。神さまが、あなたのお願いを聴き届けてくださいます」。ハンナは、神さまが一番良いようにしてくださることを信じました。しばらくすると、ハンナに男の赤ちゃんが生まれました。神さまがハンナの祈りに応えてくださいました。その子を「サムエル」と名づけて、大切に育てました。3歳になった時に、ハンナは、神さまに約束したとおりに、サムエルを神殿に連れて行きました。

サムエルは、エリ先生の手伝いをしていました。ある夜、サムエルが神殿で寝ていると、「サムエル、サムエル」と呼ぶ声が聞こえました。これは神さまからの呼びかけの声でした。サムエルは、「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」と答えました。すると神さまは、サムエルに大切な話をお伝えになりました。サムエルは、神さまが一番良いようにしてくださることを信じました。サムエルはさらに成長して、イスラエルの人々に神さまの言葉を伝える預言者として活躍しました。

皆さんは、神さまが一番良いようにしてくださると信じて、祈っていますか。そう信じて心から祈るならば、私たちは何も心配することはありません。

2017.11.05説教「わたしは生まれながら」

旧約聖書 コヘレトの言葉  4章13~16節
新約聖書 使徒言行録 22章22~29節

静かにパウロの弁明を聞いていた民衆が再び興奮したのは、パウロが異邦人伝道を語った時でした。神の愛と恵みが異邦人にも与えられるということは、ユダヤ人たちにとって絶対に受け入れることができませんでした。群衆の興奮が激しいのを見た千人隊長は、暴動を起こさないために、パウロを兵営の中に収容し、鞭で打ちたたいて真相を調べようとしました。これに対して、パウロは「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」と抗議します。千人隊長は急いでパウロのもとに来て、パウロがローマ帝国の市民であることを確認します。それも「生まれながらローマ帝国の市民」であることを知って恐れおののきます。
私たちは「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェ2:3)。それがイエス・キリストの十字架の贖いによって救われました。救われたことによって、私たちが生まれながら持っているものが生かされます。パウロは、それを福音宣教に大胆に用いました。パウロが、ローマでも証しをするためには、生まれながら持っているローマ帝国の市民権が大いに用いられました。パウロは、決して生まれながらのものだけに頼ることはありませんでした。厳しい教育を受け、自己訓練を怠らず、絶えず前を目指す人でした。しかし、それと共に「生まれながら」与えられたものを喜び、それを用いる人でもありました。私たちも、この生き方に倣いましょう。「生まれながら」与えられたものを喜び、更なる前進を目指す。そのようにして神の御心が行われていきます。

2017.10.22説教「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか。」

旧約聖書 哀   歌  3章25~33節
新約聖書 使徒言行録 22章 1~21節

パウロは、エルサレム神殿で、自分を殺害しようとしている人々に対して弁明をしました。弁明の中心は、パウロの回心にありました。回心の出来事において大切なことは、主イエスがパウロに、「サウル、サウル」と呼びかけて下さったことです。パウロが求めて、尋ね出したのではありません。主イエスが、先手を取り、恵みの待ち伏せをして、パウロに語りかけ、彼の生き方を根本から変えて下さったのです。回心したパウロは、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と問いました。ここには、神に服従しようとする意志が見えます。神は、このパウロに「立ち上がってダマスコへ行け」とか、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」と命じられました。

パウロは、なぜこのような内容の弁明を、この出来事から20年後のエルサレムの人々に対して行っているのでしょうか。パウロの弁明を一貫しているもの、それは、神の御計画がいかに、すべてに先行するかの一点です。パウロは、自らの意志に反してであっても、神の御旨に従い、これを実行して行く備えがあったのです。主イエスを信じ、神の家族の一員とされた私たちは、パウロのように「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか」と、主イエスに全く従い、主イエスの指示を待ち望んでいるでしょうか。自分の願望、期待、都合ばかりを主張して、主御自身の御旨に聞き入る姿勢、時間を少しも取っていない、これが実情ではないでしょうか。私たち各自が「どうぞお話しください。僕は聞いております」(サム上 3:10 )と祈る者とさせていただきましょう。