2017.08.20説教「安息日を聖別せよ」

第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

安息日を守る理由の一つは、神が六日の間に天と地を創造され七日目を休まれた(安息された)からです。しかし、休んだといっても、神は何もしなかったのではありません。神は、この日を祝福されました。神は、この日ご自身の造られたものをご覧になり、祝福されました。そこに神の喜びがありました。そして、神に造られたものの喜びがあります。ですから、私たちは、安息日に神に創造されたことを喜びます。そのとき、私たちの後の六日は、喜びに満ちたものなります。

 申命記には、安息日を守る別の理由が記されています。それは、神が神の民を奴隷状態から解放して自由にして下さった、そのことを覚える日が安息日だということです。しかし、人は、せっかく神が与えて下さった自由を再び束縛してしまいました。自己中心、人間中心という罪の奴隷になってしまいました。そのことによって、様々な束縛の中に巻き込まれてしまいました。神は、主イエスの十字架という犠牲を払って、私たちを罪から解放してくださいました。そのことを確認し、神の恵みを心にとめる時が、主日礼拝の時です。ですから、キリスト教会は、安息日を日曜日に変えました。イエス・キリストが復活されたことで私たちは、新しい者になりました。新しい人生を生きる者となりました。

私たちが安息日の一日を聖別するとき、神は、残りの六日も祝福してくださいます。否、残りの人生のすべてに真実の安息と解放を与えて下さいます。このような神の恵みを心に留めて、それぞれの一週間を次の安息日(主日)を目指して歩んでまいりましょう。

2017.08.13説教「殺してはならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章13節
新約聖書 マタイ福音書  5章21~26節

第六戒「殺してはならない」

なぜ「殺してはならない」のでしょうか。第一の理由は、神が人間を「神のかたち」に創造されたからです。ですから、人を殺すことは、人の中にある神を殺すことになります。神を殺すこと、これ以上の罪はありません。第二の理由は、命を治めているのは神だからです。もしも人が勝手にその命を縮めるようなことをしたら、自分を「命を支配する神」にしたことになります。この自らを神とする事も大きな罪です。

 主イエスは、兄弟に腹を立てる者、「ばか」と言う者、「愚か者」と言う者は殺人を犯しているのと同じであると言われました。なぜならば、腹を立てるというのは、「あんな奴などいないほうがよい」と思いで相手を殺すことになるからです。また「ばか」とか「愚か者」と言うことは、言葉によって相手を殺すことになります。主イエスは、「殺してはいけない」という戒めの範囲をここまで広げられました。行いだけではありません。思いにおいても、言葉においても相手の存在を否定するようなことをしたら、それが相手を殺したことになります。

殺さなければこの戒めを守ったことになるのでしょうか。そうではありません。この戒めは、「相手を愛する」ことが命じられています。しかし、私たちは、自分の中にそのような愛がないことに気がつかされます。しかし、私たちが、私たちを生かし、隣人を本当の意味で生かすことができるお方、イエス・キリストを心の中に迎え入れれば、私たちの心は、愛で一杯になります。私たちの心をこのお方の愛で満たしていただこうではありませんか。

2017.08.06説教「故郷の言葉で神の偉大な業を語る」

旧約聖書 創世記 11章 1~ 9節
新約聖書 使徒言行録  2章 1~12節

シンアルの地に住み着いた人々は、固くて丈夫な煉瓦(れんが)を作ることを発明しました。人々は、「この煉瓦で天にまで届く塔を建てて、私たちの力を見せつけるんだ。こんなにすばらしい発明をした自分たちは、何でもできる。神なんて必要ない」と考えました。その様子をご覧になった神はとても悲しまれました。このまま放っておけば、人間たちは力を合わせてもっと悪いことをするようになるでしょう。そこで神は、人間の「言葉を混乱(「バベル」)させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにして」(創11:7)しまいました。互いに何を言っているのかわからないと、協力して仕事をすることができません。人々は塔を造るのを途中で諦めて、ばらばらに散っていきました。

それに対して、聖霊降臨の時には、一同は聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉で話し出します。分裂していたものが、一緒に集まって祈ることによって、また聖霊の恵みによって一致の恵みを取り戻していきます。神の計画はキリストの福音を通して人類が救いにあずかることにありました。人間の罪によって築かれた言語の混乱は、この福音が全世界に広がるためには大きな障害となりました。そこで聖霊の働きは、この障害を打ち破って、様々な言語の人々が皆同じようにキリストの福音を聞くことができるようにしました。人の罪によってこの世界は救いようのない混乱の中にあります。しかし、聖霊の力はその混乱を克服し、人々にキリストの福音を伝えることができます。私たちは、今日このようにして、言葉の違うアジアの青年たちと一緒に神を賛美しています。「神の偉大な業」を聞いています。この恵みを神に感謝いたしましょう。ハレルヤ!!

2017.07.30説教「神の名をみだりに唱えてはならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章 7節
新約聖書 マタイ福音書  7章21~23節

第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」

この戒めは、神の御名を、自分の思いを実現させるための道具にするな、ということです。このようなことが起こらないように、この戒めには「みだりにその名を唱える者を主は、罰せずにはおかれない」という罰則規定がついています。このことから、ユダヤ人は、この警告を真剣に受け止め、この戒めを極端に厳格に守って、一切神の名前を発音しなくなりました。しかし、これは大きな誤りです。神は御子を身代わりに十字架につけるほどに私たちを愛して下さる愛の神です。愛は、名前を呼ぶことから始まります。神は、私たちを一人一人の名前を呼んで愛してくださるお方です。ですから、私たちも自分を愛して下さるお方の名前を大胆に唱えてもいいのです。そのような愛の気持ちをもって唱えることこそこの戒めが求めていることです。

この戒めで一番大切なことは、神を褒めたたえること、賛美する事です。 「主の名をみだりに唱えてはいけない」というのは、「主の名を正しい方法で唱えなさい、賛美しなさい」ということです。主の祈りの最初にある「御名をあがめさせたまえ」の祈りと同じです。私たちは、自らの祈祷、賛美、礼拝を充実させていきましょう。それとともに、教会の祈祷、賛美、礼拝をなんとか神を褒めたたえるものにふさわしいものへと高めていきましょう。そうしたときに、神の御名が私たちの喜びとなります。私たちが、神の御名を唱えるとき、平安に満たされます。たとえ、試練のなかにあっても。

2017.07.23説教「いかなる像も、造ってはならない」

旧約聖書 出エジプト記20章 4~ 6節
新約聖書 ローマ書 1章18~32節

第二戒「あなたはいかなる像も、造ってはならない。」

偶像礼拝を禁止している十戒の第二戒を学びましょう。なぜ、偶像礼拝はいけないのでしょうか。

第一に、偶像礼拝は偉大な神を引き下げることになるからです。

私たちの救いのために御子を十字架にかけるまでに愛して下さる、その神の愛をいったいどうして何かの像などで表すことができるでしょうか。愛することのできないもので、愛そのものであられる神を表すということは、その愛を軽く見るということになってしまうのです。

私たちは、ただ偶像を拝まないだけでなく、本当の神であるイエス・キリストに目を向けていかなければなりません。主イエスという人格を通して神を見ていくときに、私たち一人一人も「神のかたち」をもつ者になることができるのです。

第二に、偶像礼拝は偉大な人間を引き下げることになるからです。

人間は「神に僅(わず)かに劣るもの」として造られ、「栄光(えいこう)と威光(いこう)を冠(かんむり)としていただかせ」(詩編8編6節)ているものです。人間であるということは、それだけで、これほどまでに尊厳のあることなのです。それほど尊厳のある人間が、人格のない木や石に向かって頭を下げる偶像礼拝を、神はお許しにならないのです。私たちは、神以外の何者も拝むことをしない、「神のかたち」に造られた尊厳ある人間なのです。私たちは、神以外のものを拝むことが滅びにつながるということを心に刻みましょう。そして、真の神のみに仕える者の恵みを数えながら日々を歩んでまいりましょう。

2017.07.13説教 「ほかに神があってはならない」

旧約聖書 出エジプト記20章 3節
新約聖書 マルコ福音書12章28~34節

第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

神がモーセを通して与えた十戒の第一戒は、私たちに三つの問いかけをします。①あなたは何に寄り頼んでいますか。 私たちが何かをしっかり握りしめて、絶対に失うまいとしているものがあったら、それがその人の心を捕らえ、心を支配しているものです。そのようなものこそ、まさにその人にとって「ほかの神」であるということができます。ある人にとっては、その「ほかの神」は、能力、健康、仕事、お金です。このような「ほかの神」をもっていると、それを失うことを恐れて私たちは不安に落ち込みます。「ほかの神」は、見掛けはどんなに立派に見えてもいずれ変わります。それに対して、真の神は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13・8)です。私たちがこのお方との関係だけを自分の拠って立つところにするならば、自信を失ったり、喜びを失ったりすることは決してありません。 ②あなたのこれからの人生を決めるのは何ですか。 ある人がかなり難しい試験を受けました。この人は、「神が、私の人生に一番いいことをして下さる」と信じていました。ですから、この人は、どのような状況にあっても平安でいることができました。神のみに寄り頼む者はこのような幸いをいただくことが出来ます。 ③この神だけをあなたの神としていますか。 神は、私たちの身代わりに自分の愛するひとり子を十字架にかけるほどに、私たちを愛してくださいました。これほどの愛があるでしょうか。このように、私たちは、神に愛されていますから、この神だけを私たちの神とした時に、私たちには喜びと平安が増し加わります。

2017.07.09説教「節制の実を結ぼう」

旧約聖書 箴    言 16章32節
新約聖書 マルコ福音書  1章29~39節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ 5:22、23)

マルコ福音書1章35節において、主イエスは、「朝早くまだ暗いうちに起きて」「人里離れた所へ出て行き」「そこで祈って」おられました。主イエスにとっての最大の目標は、十字架でした。それを妨げる力も、そこから逃れようとする誘惑も、主イエスには生涯つきまといました。ですからその使命に生きるために、主イエスは、常に神の導きを必要としていました。この朝の主イエスの祈りは、節制によって実現しました。さらに祈りが一層強固な節制を生みました。私たちにも、それぞれに神が与えられた使命や、生涯の目的があります。節制は、その使命に生きるために不可欠な品性です。

私たちは、罪を犯すほかは何をしても自由です。しかし、だからといって何をしてもよいわけではありません。衣食住に関すること、趣味や娯楽の問題、仕事や勉学や家事のことまで節制が求められています。私たちが節制を欠きますと、神が願っておられたようには、事が進まなくなってしまいます。節制は、自分にかけるブレーキです。やればできることを神の働きと栄光のためにしないことです。節制は、神のご計画と働きが、御心のように進むために、私たちが必要とする品性です。節制の実を神が私たちにも結ばせてくださることを信じましょう。