2017.10.15説教「混乱状態の中で」

旧約聖書 イザヤ書 35章 1~10節
新約聖書 使徒言行録 21章27~40節

パウロは、エルサレム神殿においてローマ軍のエルサレム守備大隊によって逮捕されてしまいました。そのきっかけとなったのは、ユダヤ人たちの「パウロが異邦人を神殿に連れ込んだという」という誤った思い込みでした。この思い込みで群集を扇動して、パウロを「神殿を汚した罪」で殺そうとしたのです。私たちも、思い込みで人を動かそうとしないように、また人に動かされないように気を付けましょう。

パウロが危機一髪の時、思わぬ助けが現れます。ローマ軍のエルサレム守備大隊が駆け付けたのです。守備大隊の千人隊長は事態の収拾を図るため、パウロを逮捕しました。千人隊長は、群集に迷わされることなく、「パウロが何者であるのか、また、何をしたのか」を調べようとしました。彼なりに事実を正確に知ろうと努力を払いました。このことによってパウロの命は助かることになりました。このように、神は異邦人である千人隊長を通してでも、パウロを守り導いておられました。神は、私たちにも私たちを助ける人を備えておられます。

パウロは、混乱状態に落ち入り、自分を殺害しようとしている人々に対してさえ、「どうか、この人たちに話をさせてください」と弁明の機会、福音宣教の機会を求めました。まさに「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(テモテ二4・2)を実践していたのです。私たちもたとえ混乱状態の中にあっても、神の守りを信じて、自分に与えられた務めを忠実に果たす歩みをこの週もしていきましょう。

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2017.10.08説教「キリスト者の自由」

旧約聖書 詩  編 118編13~16節
新約聖書 使徒言行録 21章17~26節

パウロ一行は、遂にエルサレムにやって来ました。パウロは、エルサレム教会の人々に「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明」しました。確かに、神ご自身が異邦人の間で福音宣教の御業を推し進めてくださいましたが、それは人間を通し、人間を用いてでした。この両面を正しく見て、私たちも主の御業に励む必要があります。パウロの報告を「聞いて、人々は皆神を賛美し」ました。私たちも、他の人々を通して行われた神の御業を聞く耳を与えられ、聞いて神を賛美する心へと整えたいものです。

エルサレム教会は厳しい状況にありました。ユダヤ人キリスト者の間に、パウロに対する誤解があり、パウロを中傷する言葉が拡がっていました。そこでエルサレム教会の指導者たちは、パウロに一つの提案をしました。彼らは「人は律法の行いではなく、信仰のみで救われる」ことにおいては、パウロと同じ意見でした。そのうえで、愛の行いとして、ユダヤ人キリスト者を躓かせないために「律法の行い」をしてほしい、と言うのです。パウロは、この提案を受け入れました。パウロは信仰に関することには一切妥協しませんでした。しかし、同時に「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るため」(Ⅰコリ9:20)でした。この週、私たちも信仰において一切妥協することなく、私たちのできる愛の行いをしていきましょう。神ご自身が、私たちを通して、してくださいます。

2017.10.01説教「隣人の家を欲してはならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章17節
新約聖書 フィリピ書  2章 1~11節

第十戒「隣人の家を欲してはならない。」

この「欲しがる」(口語訳「むさぼる」)と訳されている言葉には、「本来自分のものでないものを強く欲しがる」という意味があります。人が犯す罪の多くは、自分の物でないものを過度に欲しがることから起こります。英国の聖書学者バークレーは、「その全生活を何かを得たいという欲望に委ねる人は、神の立つべき場所に物質をおいている。事実、その人は神ではなく、物質を礼拝している。厳密にいえば、これが偶像礼拝である」と言っています。

では、どうしたら、この「欲しがる」思いに勝利することができるでしょうか。ウェストミンスター小教理問答は、この問いに次のように答えています。「この第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです」。むさぼりに勝利する秘訣は、現状に満足すること、隣人に愛の気持ちを持つことにあるというのです。それでは、どうすれば人は満足を経験するでしょうか。ザアカイ(ルカ19:1~10)に注目してみましょう。貪欲(どんよく)な生涯を送ってきたザアカイは、主イエスに出会うことで、心が満たされ、お金に対する執着が捨てられました。さらに、ザアカイは、隣人への愛に目覚め、財産を貧しい人に施すことを誓うのでした。

私たちは、「神は我々と共におられる」と言われた主イエスをお迎えして、何がなくとも主イエスがおられるがゆえに、豊かであるといえる、そんな、経験をしましょう。

2017.09.24説教「偽証してはならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章16節
新約聖書 マタイ福音書  5章33~37節

第九戒「隣人に関して偽証してはならない」

「偽証」は、神の戒めに背いても自分にとって利益だと思ったら、他人を罪人に仕立てあげて平然とする心と結びついています。自分の欲望が、神の戒めに導かれた真実の道を見誤らせます。自分を絶対的なものとして、神を畏れることを忘れてしまいます。人は神を忘れてしまうと自分を神にして、自分の思いを実現しようとします。偽証をしてまでも。

この戒めの積極的な意味を二つ学びたいと思います。第一は、陰口を利(き)かず、悪口を言わないということです。それは、人と人の信頼関係を破壊することになります。いや、人間関係どころかその人自身を破壊してしまうことすらあります。しかも、その人は、神が御子イエス・キリストを十字架にかけるほどに愛している人です。そのように大切な人を、傷つけるということは、神を冒瀆するのと同じことになります。ですから、「偽証」は、罪です。第二は、真理を愛して、真実を語るということです。私たちは、語るべきときに、真実な言葉をもって語らなければなりません。しかし、「真実の証人」(箴言14:25)というのは、ただ事実をずけずけと言う人のことではなくて、魂を救う人のことです。そのために必要な事は、主イエスの十字架の愛に生きることです。私たちが、この主イエスの犠牲の愛に満たされた時に、初めて隣人に対して同じ痛みを担うことができ、愛の言葉を語る事ができます。私たちが、悪口、陰口、うわさ話しではなく、常に真実を語る者となるために、この一週間も十字架のイエス・キリストを見上げて歩んでいきましょう。

2017.09.17説教「盗んではならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章15節
新約聖書 エフェソ書  4章25節~5章5節

第八戒「盗んではならない。」

なぜ「盗んではならない」のでしょうか。それは、世界とそのなかに満ちる「もの」の真実な所有者は神であって、人はその管理をまかされているに過ぎないからです。人は、この委ねられた「もの」を上手に管理して、持ち主である神に喜んでいただくことが大切なのです。ですから、この本当の持ち主である神を無視して自分の「もの」として着服すること、すなわち盗むことは、自分が神に代わって持ち主になろうとすることになるわけです。盗みは、「自分を神とする」重大な罪を犯すことになります。ですから、「盗んではならない」のです。

ハイデルベルク信仰問答 問111「それなら、この戒めにおいては、神は、何を、命じておられるのですか」。答「わたしが、できる限り、また、許される範囲において、わたしの隣人のために、益を計り、彼に対して、自分が他人にしてほしいように尽くし、真実に努力して、困って助けを求めている人々を、助けることが出来るようになることであります」。この第八の戒めは、盗まなければ良いというものではありません。相手に、時には自分自身に、「与えること」を求めているのです。

何がなくとも、神さまが共にいてくださる人生、そのような人生こそが真実な意味で幸いな人生です。私たちが、そのような人生を歩むとき「もの」に固執する生き方を捨てて、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)生き方ができるようになります。

2017.09.10説教「究極の親孝行」

旧約聖書 出エジプト記 20章12節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章1~4節

第五戒「あなたの父母を敬え。」

神は、両親を用いて私たちをこの世に生まれさせ、育てて下さいました。さらに両親を通して多くのものを与えて下さいました。このように、両親は、神の代理人ともいうべき立場にあります。ですから、両親を敬うのです。神に立てられた存在であるから敬うのです。また、この戒めは、親の責任について教えています。親は、神の代理の働きをするものです。代理人にふさわしく子どもを育てなければなりません。「父母を敬え」の戒めには「敬われる父母なれ」というメッセージが含まれているのです。

「あなたの父母を敬え」が実現できるとき、二つの人間関係が回復します。①自分との関係 両親を受け入れることは、自分の存在を受け入れることです。なぜならば、私の命は両親によって存在するようになったからです。ですから、「あなたの父母を敬え」ということは、自分の命を喜ぶことにつながるのです。②他者との関係 親との関係は子が最初に経験する人間関係です。これが歪んだものですと、その人の人間関係は、生涯、歪んだものとなってしまいます。親との関係の回復は非常に重要です。

どうしたら、「あなたの父母を敬え」を実現することができるのでしょうか。それは、天の父である神を自分の本当の親として、生まれ変わり、最初からやりなおすのです。真の親である神を愛するとき、私たちは、神から愛を頂き、「父母を敬う」生き方ができるのです。

2017.09.03説教「姦淫してはならない」

旧約聖書 出エジプト記 20章14節
新約聖書 マタイ福音書  5章27~32節

第七戒「姦淫してはならない」

なぜ「姦淫してはならない」のでしょうか。①姦淫は神が結び合わせて一体となった結婚関係を壊すからです。②姦淫は家庭を崩壊させ、心と身体に傷を残すからです。③姦淫は自分の感情、欲望を神にしていることになり、真の神を裏切ることになるからです。

エフェソ信徒への手紙5章31~33節で、使徒パウロは、夫婦の「一心同体」の関係をキリストと教会との結合として理解していました。キリストと教会の関係にたとえられる程の、夫婦の一心同体の関係を壊す姦淫は、許されないのです。

主イエスは、文字どおり姦淫を犯さなくても、心の中で妻や夫を裏切ることがあれば、この第七戒を破ったことになる、と語られました。この基準で考えたなら、既婚者は、誰しも思い当たることがあるのではないでしょうか。それならばどうしたらいいのでしょうか。主イエスは、ヨハネによる福音書八章において、姦淫を犯した女性の罪を赦されました。それは、この女性が逃げ出さずに主イエスのもとに留まることを選んだからです。主イエスは、罪を犯しても、ご自身のもとに留まり続ける者を、十字架のゆえに赦してくださるのです。自らの罪に絶望してもなお主イエスにもとに留まり続けるとき、主イエスはその罪を十字架のゆえに、赦してくださるのです。そして、この赦しのなかにあるときに、本当に妻を、夫を愛することができるのです。移り変わりやすい人間の愛情ではなく、変わることがないキリストの愛を基にした夫婦の愛を育てていこうではありませんか。