2018.02.18「イエスが生きている」

旧約聖書 エゼキエル書 33章11節
新約聖書 使徒言行録 25章13~27節

パウロの裁判は、パウロが皇帝に上訴したことで終了しました。しかし、裁判官を務めた総督フェストゥスには、重大な仕事が残っていました。それは、罪状を記した上告状を皇帝に送らなければならないことでした。しかし、彼はこの点で途方に暮れていました。なぜなら告発者たちは、彼が「予想していたような罪状は何一つ指摘」できなかったからです。しかも、告発者たちが「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関すること」特に「死んでしまったイエスとかいう者のことで」「このイエスが生きていると、パウロは主張している」ということでした。前任者のフェリクスは、「この道についてかなり詳しく知って」(24:22)いましたが、新任のフェストゥスは皆目見当がつきませんでした。そこで、フェストゥスは、パウロの取り調べを公開で行い、キリスト教会と関係があるアグリッパ王の力を借りて上訴状を書こうとしました。

フェストゥスには、「死んでしまったイエス」が、今「生きている」復活した、ということが信じられませんでした。なぜ、イエスの復活の論争をめぐって、こんなに騒ぐのか理解できませんでした。しかし、パウロにとっては、「イエスが生きている」ことこそすべてのすべてでした。イエスが復活したならば、今もイエスは私たちと共に生きておられます。イエスが復活したのであれば、やがて「来るべき裁き」も、私たちにとって喜ばしい希望になります。このように、イエスの復活を信ずるということは、根本的な大変革を生み出す力です。私たちが生かさるそれぞれの場で、「イエスが生きている」と証しする歩みをしていきましょう。

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2018.02.11説教「変わらないものに目をとめて」

旧約聖書 創 世 記 50章20節
新約聖書 使徒言行録 25章1~12節

パウロが監禁されている間に状況が大きく変わりました。ローマ皇帝、ユダヤ総督、大祭司が変わったのです。しかし、そのような中でも、ユダヤ人指導者のパウロに対する恨みは、変わっていませんでした。新総督は勤勉で、有能な人物でしたが、「人に気に入られる」ように行動をするという人間の弱さも変わりませんでした。そのような中で、パウロは、ローマ市民として自分に与えられている当然の権利を確認し、自らの無罪を主張します。更に、事実悪いことをし、死罪に当たることをしたのなら、法に服し罰を受ける覚悟を示します。そのうえで、皇帝に上訴する道を選択しました。泣き寝入りをしたり、この世の裁判などどうでもよい、神さえ知っていればよい、と考えたりはしません。自分に与えられている賜物を生かして闘います。なぜならば、そこに神から託された使命があったからです。パウロにとって、どんなに社会が変わり、登場人物が変わっても、神の使命に生きることは変わりません。パウロが「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:29口語訳)と言っている通りです。なぜならば神は変わらないからです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)。私たちも、パウロが皇帝に上訴すると断言したあのスピリットを持ち続け、生かされたいと思います。この世界を支配しているのは皇帝ではありません。唯一の、生ける、真の神、主イエスを死人の中から復活させられた「変わることのない」神が、今、この場を統治なさっていると信じ、私たちはそれぞれの与えられた場で力一杯励みましょう。

2018.02.04説教「真の恐れ」

旧約聖書 詩   編 139編14節
新約聖書 使徒言行録  24章22~27節

パウロの裁判を担当したローマ総督フィリクスは、「この道(=キリスト教信仰)についてかなり詳しく知っていた」人物でした。さらに、彼は、与えられた機会を見逃さず、「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話」を聞きました。求道の熱い思いをもってパウロのところに来たのです。しかし、パウロは、単に一般的な知識として、「キリスト・イエスへの信仰」について話しませんでした。パウロは「正義や節制や来るべき裁き」について語ります。そうしますと、フェリクスは、恐ろしくなりました。このことは、フェリクスが、罪の意識を持ち始めたということを意味しています。今、悔い改めれば救いのチャンスがありました。ところが、フェリクスは、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と、決断を延期してしまいました。結局、彼には「また」の時は、訪れませんでした。

フェリクスが、信仰の決断に至らなかったもう一つの大きな問題は、お金の問題でした。「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合って」いました。お金に対する態度と、神に対する信仰は、最も密接な関係があります。私たちは、フェリクスの場合のように、お金を信仰よりも重んじ過ぎないように気を付けましょう。

フェリクスの記事は、「真の恐れ」について私たちに問い掛けてきます。恐れてはならないものを恐れてはいないか。恐れるべき御方を、恐れずに生きていないか。「真の恐れ」。この道こそ、恐れる必要のないものから、恐れてはならないものからの解き放ちの道です。勝利の道です。

2018.01.28説教「天を仰ぐ人」  平 尚紀 伝道師(成瀬教会)

旧約聖書 詩 編 17編 3~ 7節
新約聖書 マルコ  7章31~37節

私たちは、自分で立てた計画をどうにか自分の力で実現しようとするのですが、そこに様々な条件が整わなければ決して進むことが出来ない。神が道を開いてくださらなければ、決して進むことは出来ないのです。

私たちは、ああなりたい。こうなりたいと、あれこれ努力するのですが、神が道を開いてくださらなければ、決して実現することはできない。もちろん、私たちの努力も必要ですが、それらを超えて、道が開かれるかどうかは、私たちの側ではどうにも出来ないことがあるのです。

しかし、今日の聖書箇所は、イエス・キリストは道を開かれるお方であることが記されている大変興味深い箇所でもあります。

主イエスは、耳の聞こえない人の耳に指を入れ、舌に触れ、「エッファタ」と言われた。「開け!」とお命じになられた。すると耳が開き、舌のもつれが解けたのです。正しく聴くことができたこの人は、言葉を正しく識別することが出来るようになり、正しい言葉を語ることが出来るようになったのです。

主イエスに触れられ、心を開いていただいた私たちは、まことの言葉、命の言葉を聞く者へと変えられたのです。正しい言葉を聞く私たちは、正しい言葉を語りだすのです。「この方のなさったことはすべてすばらしい。」と。これは賛美の言葉です。

私たちは礼拝の中で天を仰ぎ、神の言葉を聞き、神をほめたたえる者とされて、神を賛美する。神の言葉を語る者とされているのです。

2018.01.21説教「未来に希望を持って一歩一歩」

旧約聖書 エレミヤ 29章11節
新約聖書 ローマ書  8章26~30節

1月の説教は、2018年の田園教会の活動方針について、御言葉から学びます。本日は、活動方針③「主が与えて下さる未来に希望を持って、一歩一歩進む」についてエレミヤ書29章11節から学びます。

紀元前586年、南ユダ王国は新バビロニア帝国に滅ぼされ、主だった人々は捕囚としてバビロンに連れて行かれました。預言者エレミヤは、「バビロンに七十年の時が満ちたなら……あなたたちをこの地に連れ戻す」という主の御心を伝えます。これは、人々にとっては希望ではなく、絶望をもたらす言葉でした。ところが主は、「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」「それは平和の計画であって災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と語られました。

エレミヤは、捕囚の民に、空しい偽の希望を追いかけずに地に足の着いた生活をしないさい、と勧めます。神は、あなたが今生きているところが、私が遣わしたところだ、そこで全力で生きなさい、「将来と希望」はその先にある、そう語られたのです。神の言葉を聞き、神の御心を正しく悟って、それに従う者にこそ、将来と希望が約束されています。私たちは、将来に様々な不安を覚えます。しかし、神の計画は、私たちに「将来と希望を与えるもの」です。それを信じて、この年、各自の賜物を生かして神と教会に仕えていきましょう。未来は必ず開かれます。

2018.01.14説教「現在、与えられている恵みを喜ぶ」

旧約聖書 詩   編 118編24節
新約聖書 コリント二 12章9節

1月の説教は、2018年の田園教会の活動方針について、御言葉から学びます。本日は、活動方針②「現在、教会に与えられている恵みを喜びつつ、一歩一歩進む」について詩編118編24節から学びましょう。

詩人は、主なる神が私を守ってくださるから、私は大丈夫、人が私に何ができるだろうか。そう言い切ることができるほどに、主の慈しみ、恵みを味わっています。そして、心からの喜びを、感謝を表します。主との豊かな関係はただ、私たちが主から守られて嬉しいというだけでなく、その喜びを表すこと、感謝すること、こうして神を褒めたたえることを通して、主との交わりは深められていきます。

24節で「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」と呼びかけられます。しかし、私たちはなかなか喜ぶことができません。それでも私たちは喜びたいと思います。「今、喜ぶことができるものは何もない。しかし、主イエスは私のために十字架に架かって下さった。こんなに素晴らしいことはない、喜ぼう」。そうやって笑顔を作るのです。ありもしないことで無理やり笑顔を作るのではありません。神の御業は確かなのです。人間とは不思議なもので、笑顔を作っているうちに、本当の喜びにかわってきます。神の御業を真実に喜ぶことができる者になることができます。そのようにして、笑顔に満ちた一歩一歩をこの年歩んでいきましょう。

2018.01.07説教「神に導かれた過去を振り返る」

旧約聖書 イザヤ書 51章 1節
新約聖書 使徒言行録 20章22~24節

1月の説教は、2018年の田園教会の活動方針について、御言葉から学びます。本日は、活動方針①「神に導かれた過去を振り返りながら、一歩一歩進む」についてイザヤ書51章1節から学びましょう。

エルサレムの人々は「廃虚」を目の当たりにしていました。彼らは「荒れ果てた」現実に希望を失いかけていました。そこで神は、預言者イザヤを通して「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴(※)に目を注げ」と彼らに語りかけられました。具体的には、アブラハムとサラを指しています。神はアブラハムに対して子孫を与えると約束されました。しかし、アブラハムとサラには、年老いてなお子どもが与えられませんでした。このような中でも、アブラハムは神に対して、確かに信仰をもって応えました。人間の可能性が潰(つい)えた「終わり」を、新しい「始まり」とすることのできる神を信じることこそ、信仰の原点でした。

「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」は、信仰においては、信仰が与えられた時、洗礼を受けた時のことを振り返ることです。自分がどんな状態の中から救い出されたのかを思いこすことです。教会においては、教会設立の原点を振り返ることです。過去を導かれた同じ神が今の私たちを導いて下さいます。

私たちは「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に」目を注ぎましょう。そうすれば私たちは、慰められ、希望をもって、立ち上がることができます。「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」のです。私たちは、新しい心をもって一年を歩み出しましょう。

※「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」とはルーツ・原点のこと