2018.06.17説教「福音によって希望を持って」

旧約聖書 出エジプト記 32章1~14節
新約聖書 ガラテヤ書  2章1~10節

パウロは、「人は律法によって救われるのではなく、ただ、神の恵みによるのである」という福音を大胆に異邦人に宣べ伝えていました。

彼の異邦人伝道は、神に祝福され、異邦人教会の中心であるアンティオキア教会が誕生し、この教会を中心に福音はさらに拡大していきました。

ところが、ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え、パウロと激しい意見の対立と論争が生じました。そこで、この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロと数名の者がエルサレムへ上ることになりました。パウロは、自分の福音の立場を少しも崩すことなく、エルサレム教会の諒解(りょうかい)を得ようとしました。協議の結果、福音の一致が確認されました。異邦人キリスト者に「貧しい人たちのことを忘れないよう」にという条件以外に「どんな義務も負わせ」ないことが決定しました。すなわち、救いに律法や割礼が必要ではないことが明確になりました。

パウロがエルサレムに来たのは、彼が使徒であることを承認してもらうためでした。しかし、彼は、人間の考えから、それを定めてもらいたいとは考えていませんでした。ただ、神のお与え下さった救いの福音だけが、それを決め、与えることができるのです。福音によって生きる者は、今もこのことについて、確信を持ち、いつも神の福音の力を待ち望まねばなりません。私たちもこの福音によって希望を持って、新しい週を歩んでいきましょう。

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2018.06.10「神からの福音」

旧約聖書 エレミヤ書 1章 4~10節
新約聖書 ガラテヤ書 1章11~24節

パウロは、反対者から「彼の福音は、キリストの直弟子であったエルサレムの使徒たちからの借物に過ぎない」と、中傷されました。これに対してパウロは、回心前後の自分自身について記し、自分が宣べ伝えている福音は、神からきたものであることを主張します。

①回心前 パウロは、頑迷で熱狂的な人物でした。そのような人間は、人に何か言われたぐらいでは、自分の生き方を変えることはありません。逆にそのような人物は、人に何かを言われると、一層熱狂的で頑迷になっていきます。このような人間を変えることができるのは神だけです。

②回心 神はダマスコ途上でパウロに、御子イエス・キリストを示されました。パウロは、そのイエス・キリストを信じて、異邦人の宣教者になりました。パウロの信仰は、神から与えられたものなのです。

③回心後 パウロが、初めてエルサレムに行ったのは、回心後三年も経ってからでした。しかも、わずか15日間という短い滞在であり、ペトロとヤコブにしか会いませんでした。その後も、パウロは、エルサレムから遠く離れたところで宣教を行っていました。ですから、反対者たちが言うように、パウロの福音がエルサレムの使徒たちからの借物であるということはありえません。

パウロは、繰り返し繰り返し、自分の福音が神からのものであることを訴えます。それは、人々が神をほめたたえるようになるためでした。私たちも、私たちのうちに起こった神の救いの御業のゆえに、神をほめたたえましょう。

2018.06.03説教「信仰の試金石」

旧約聖書 列王記下 6章8~17節
新約聖書 ガラテヤ書 1章6~10節

今日の聖書の個所の結論は、「福音はただ一つである」ということです。いろいろな「別の福音」があるのではなく、ただ一つの福音しかないということです。ガラテヤの諸教会を惑わしたユダヤ主義者らの福音は「別の福音」ではなく、福音とは全く異質なものでした。では、どうしたら真の福音かどうか識別することができるでしょうか。

パウロは、真の福音を識別する二つの試金石について記します。

第一の試金石は、福音は、「イエス・キリストの使徒たちが宣べ伝えた福音だ」ということです。言い換えれば、聖書の福音であるということです。

第二の試金石は、福音は、「恵みの福音だ」ということです。すなわち、無代価で提供される救いの福音です。いかなる行ないによるものでもありません。

私たちは、今日多種多様の考え方が語られ、書かれ、放送され、ネットに流されるのを目にする時、その一つ一つをこの二つの試金石によって厳格な検査にかけなければいけません。もし不合格であったなら、それをきっぱりと退けなければなりません。しかし、この二つの検査に合格するなら、それを信じかつしっかりと握り締めている事が大切です。神は、パウロのように福音に自分自身が生き、それを他の人々に伝える「キリストの僕」としての生き方を、今の時代の私たちにも求めておられます。

2018.05.27説教「世界を変えた手紙」

旧約聖書 イザヤ書 55章 8~11節
新約聖書 ガラテヤ書  1章 1~ 5節

「ガラテヤの信徒への手紙」は世界を変えた手紙です。この手紙を「自分の妻」と呼んで愛したマルチン・ルターが、宗教改革の旗頭となって、当時の教会と世界に一大変革をもたらしました。ルターにとっては、この手紙は、宗教改革の重要な武器になったのです。それは、この手紙が、非常に明確に、福音とは何か、ということを教えているからです。私たちは、いつでも、この手紙に表された福音を学ぶことによって、自分たちの信仰、自分たちの教会を健全なものにするために、闘わなければならないのです。
パウロは、最初の「挨拶」の部分において、この手紙の二つの主題について記しています。
第一は、パウロの使徒職についてです。パウロの宣教後にガラテヤの諸教会に来た者たちが、パウロには、福音を述べ伝える資格がない、と言い出しました。それに対してパウロは、1節において、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と主張しました。
第二は、パウロの語った福音についてです。4節においてパウロは、主イエスが私たちに与えてくださった救いとその中心である十字架を三つの観点からまとめています。①性質─「ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」②目的─「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」③起源─「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い」

2018.05.20ペンテコステ礼拝「今も続くキリストの働き」

旧約聖書 詩   編111編 1~ 3節
新約聖書 使徒言行録 28章30、31節

使徒言行録は、28章30、31節を持って終わります。しかし、キリストの働きはまだ終わってはいません。それは今も続いています。キリストが再びこの地上に来られるまで続きます。そういう意味では、私たちが使徒言行録の続きを書き続けていかなければなりません。そこで、私たちは、パウロの伝道の姿勢を学んで、自分自身の証しと伝道に生かしたいと思います。パウロの三つの伝道の姿勢を学びましょう。第一は、「訪問する者はだれかれとなく歓迎」する姿勢です。友人や親戚などが訪ねて来たとき、私たちは、どのくらいそのチャンスを用いて、福音を宣べ伝えたでしょうか。来る人をえり好みし、もっと良い相手やチャンスが来ぬものかと待っていては、主イエスを証しすることができません。第二は、「全く自由に」福音を語る姿勢です。パウロは、エフェソ教会に「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」と頼んでいます(エフェソ6・20)。パウロでさえ福音を「全く自由に」語れるようになるためには、祈りが必要でした。まして私たちは、祈りなしには福音を語ることができません。第三は、「何の妨げもなく」語った姿勢です。神の御言葉を持つ者は、キリストの御力に押し出されて、たとえ迫害の中でも「何の妨げもなく」大胆に語ることができるのです。私たちは本当に弱く、小さな者ですが、御言葉に励まされ、私たちの内に住んでおられる聖霊の力によって、この委ねられた使命を果たしていきましょう。キリストの働きは、私たちによって今も続いているのです。

2018.05.13説教「語り続ける者として生きる」

旧約聖書 イザヤ書  6章 8~10節
新約聖書 使徒言行録 28章23~28節

パウロは、宿舎にやって来た大勢のユダヤ人に朝から晩まで伝道をしました。今回は、このパウロの伝道から学びましょう。

①何を語ったのか 「神の国」と「イエス」についてです。「神の国」とは、神が統治されている国のことです。唯一の生ける真の神が万物を創造し、これを統治なさっています。「イエスについて」とは、この神の統治が主イエスを通して行われることを意味します。この「神の国」は、イエス・キリストが再び来られる時に実現します。

②どのように語ったのか 「証しする」ことと「モーセの律法や預言者の書を引用して説得する」ことによってです。パウロは、事実の目撃者、実際に自らの生涯において経験した事柄を、当事者として「証し」しました。それと共に「モーセの律法や預言者の書」すなわち旧約聖書から、客観的に冷静に、彼らを説得しようとしました。

③語ったことの結果 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしませんでした。福音が宣べ伝えられる時、心を開き、イエス・キリストを救い主と信じる人々が起こされます。しかし、同時に信じようとはしない人々もいます。福音を聞くすべての人々が主イエスを信じるわけではありません。ですから、すべての人々が主イエスを信じないからと言って、福音の宣べ伝えることを躊躇してはなりません。ある人々が信じないからといって、極度にがっかりしたり、驚いたりしてはいけません。パウロが語っても信じない人がいました。しかし、私たちが語っても信じる人は必ず起こされます。そのことを信じて、私たちなりに語り続ける者として、日々を生きていきましょう。

2018.05.06説教「希望していることのために」

旧約聖書 エレミヤ書 14章 8、 9節
新約聖書 使徒言行録 28章16~22節

パウロは、おもだったユダヤ人たちに「イスラエルが希望していること」について弁明しました。これこそ、パウロが鎖でつながれている理由であり、パウロがローマで宣べ伝えたいと願っているものです。この「イスラエルが希望していること」には、二つの側面があります。第一は、全世界、全宇宙に係わることです。使徒ペトロは、エルサレムの人々に、「このイエスは……万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(3:21)と宣言しました。「万物が新しくなるその時」は、神に敵対するあらゆる力が完全に滅ぼされ、創造されたすべてのものが神の御計画通りの完全な姿となる時です。今天にとどまっている主イエスは、このような未来を実現するために必ず帰ってこられます。このような希望があるからこそ、人々は悔い改めて、神に立ち帰らなければなりません。「イスラエルが希望していること」の第二の側面は、個人的側面です。神から離れ的外れな生き方をしている罪人である私たちのために、神ご自身が罪の贖いの道を備えて下さったということです。罪人である私たちは、ただ主イエス・キリストの十字架のみによって救われます。この側面は、ユダヤ人たちには到底受け入れることができませんでした。現代の私たちは、どうでしょうか。主イエスを個人的な救い主として信じていても、もう一つの側面、新天新地の希望を軽視していないでしょうか。今週、私たちは、この両面の希望が主イエスにおいて実現されている事実に励まされ、希望を持って日々力強く歩んで参りましょう。